ナナメヨミBlog

旧ナナメヨミ日記。Blogに移行しました。

日本政治のゆくえ

 久々の更新になる。
 前回更新から4ヶ月、日本政治はめまぐるしく動いた。
 ・大飯原発再稼働と市民による反対運動(首相官邸・関電前など)の盛り上がり
 ・「3党合意」による消費税増税法案の可決・成立
 ・小沢一郎グループが民主党離党。「国民の生活が第一」を設立も、メディア黙殺。まったく人気が出ず。
 ・竹島尖閣問題で日韓・日中関係が急速に冷却。反日デモで日本経済にも打撃。
 ・大阪維新の会を母体とした「日本維新の会」が発足。国政政党に。橋下市長が党首となる異例の体制に。
 ・日本維新の会、高支持率でスタートもわずか1ヶ月で支持率急落。「竹島共同管理」で右翼が一斉に反維新に。
 ・「近いうちに信を問う」と言いながら居座る野田政権
 ・自民党総裁選で「政権投げ出し」の安倍晋三復権
 ・石原東京都知事辞職、新党結成で国政再進出へ
 
 テレビ・新聞では「第3極」プッシュが騒がしい。みんなの党日本維新の会石原新党…次から次へと出てくるが、彼らの政策にはあまり踏み込まない。TPPを推進するみんなの党・維新の会、消費税増税に賛成する維新・石原、原発再稼働を容認した橋下、石原も原発推進。主要なテーマをチェックすれば、第3極はいずれも自民・民主と何も変わらず、政党代表の個人人気に依存した低レベルな素人集団だと、誰にでも分かる。だが、橋下人気・石原人気といった「リーダーシップのありそうな地方政治家」の漠然としたイメージだけで、自民や民主に代わる存在だと持ち上げられている。テレビ・新聞といったマスメディアにとっては、「メディアの露出度」を生命線とする政治家が政局の中心に躍り出ることは、自分たちマスメディアの存在感を高めることにもなるし、視聴率や新聞発行部数も伸びるという打算も働いているのだろう。しかし、政策的に自民・民主と何も変わらず、右翼的煽動・労働運動や福祉を過剰に敵視・急進的な競争政策、国民が自民・民主に不満を感じている点をより強化するような政策しか持っていない。それを「強いリーダーシップ」「決断力」といった政治家としての力量・資質の問題にすりかえて翼賛しているのがいまのマスメディアであり、そういった強い政治家、救世主的存在を待ち望む空気が国民にある。
 政策的に差が無い以上、「第3極」政治は単なる、自民・民主の看板を橋下や石原に架け替えただけの政治に終わる。国民が不満を持っている経済・雇用・社会保障の問題は何ら解決できない(右翼政治家は雇用や社会保障に対する関心が極めて低い)。そうなると、第3極のリーダーたちはお得意のナショナリズムに訴えて、「本当の敵はあいつらだ」という見せ物政治を展開することになる。最初は国内の反対派(左派・労働組合・教職員・知識人・公務員)をつるし上げ、次いで中国や韓国を非難して拍手喝采をあびようとする。
 経済・雇用の問題は放置され、能力・意欲を失った国民をどんどん腐らせ、貧富の格差を広げ、国力をどんどん食いつぶすことになる。それでも第3極のリーダーは「敵はあいつだ!」という政治を続ける。経済の低迷・貧富の拡大・格差の放置こそが自立心を失った国民を生み出し、それが権威主義的な右翼政治家の支持基盤をさらに強化する。第3極のリーダーはみずから国民を弱体化させ、国力を削ぎながら、「愛国」を訴えて、弱体化した国民(それはまさしく右翼政治家によってもたらされたのに)に「お前たちの惨状を生み出したのは左翼・労働組合・中国・韓国だ!あいつらが悪い!」とささやいて、さらなる国民の熱狂を勝ち取る。
 こんな最悪な展開も考えられる中、我々は何をなすべきか。
 それは依存心を断ち切ること、自立することだ。といっても新自由主義的な文脈での「自立」(=というよりも社会的無責任)ではない。高度資本主義、高度なテクノロジーの社会ではあらゆる行為が「自分の手の届かない」テクノロジーや機械の操作を伴う。仕組みを理解できないテレビやパソコン、携帯電話を操り、あらゆる情報・思考をインターネットに依存し、自力では生産できない電力やガソリンにエネルギーを依存し、高度に分業化された職務をこなすことによって生活の糧を得る。富は金融商品に化け、いざという時は医療保険制度の世話になり、年を取ると国家による年金制度に生活を依存する。複雑怪奇なテクノロジーやシステムに囲まれた生活を送っていると、自分自身の存在・生活すべては自分自身の手でどうにも出来ない、無力感を感じるようになる。テクノロジーによって自由や利便性を得る反面、自分自身が解決できるのは高度に分業化された極めて狭い職務の領域の問題だけである。高度資本主義社会は高度分業化社会であるゆえに、社会全体に対する無力感をいままでにないほどに高めることになる。社会への無力感が政治・自分たちの将来への無力感に繋がり、自分たちを超越する「強いリーダー」を待望する気分を生み出すことになる。市民一人一人が声を上げ、社会を変える、政治を変える可能性を復活させるには、自分自身の生活を、自分自身で制御可能なものにする、そういう感覚を取り戻すことが必要になる。「身体感覚」といってもいい。喜び・悲しみ・痛み・同情、そういった身体感覚をベースにして、社会のあり方、政治のあり方を考える習慣をつけることが、破滅的な「救世主待望」を断ち切り、自立した市民、安心・安全な社会への第一歩になるだろう。悲観的になることなんて何もない。