ナナメヨミBlog

旧ナナメヨミ日記。Blogに移行しました。

斎藤貴男「安心のファシズム 支配されたがる人々」(岩波新書、2004年)

 半年ぶりの更新です。

 ここのところブログ記事は政治評論が続いていましたが、自分の意見をだらだら書き連ねるだけになってしまって、少し反省。もっと広い視野で理論的に政治・経済を捉えてみたいと思い、いろいろと読書しているところです。とはいえ、読書しっぱなしでは頭に残らないので、備忘録的にブログに記事を書いていくことにします。

 今回読んだ本は、斎藤貴男「安心のファシズム 支配されたがる人々」(岩波新書、2004年)です。もう9年も前の本ですが、「強いリーダーシップ」のある政治家を待望する最近の風潮を考える上で参考になると思い、チョイスしました。斎藤貴男さんはジャーナリストなので、学術的な本とは少し違うのですが、社会に潜む「何か変な事象」を捉えて批判することにかけては一流です。あんまりにも権力批判が激しいので、一般紙ではお目にかかれませんが。

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

 この本が書かれた2004年はあの「イラク日本人人質事件」が起きた年です。政府と国民が「自己責任」を連呼して日本人人質を罵倒するという、そしてメディアも同調するという異様な事件でした。いま思えば、日本社会に「ファシズム的な風潮」、権力と大衆が一体となって「異質なもの」「弱者」を排除しようとする風潮が広がった切っ掛けだったように思います。最近だと「生活保護バッシング」も当てはまります。
 「『弱者』『異質な他者』を排除すれば、世の中が良くなる」「勝ち組にもっと力を与えないと、日本がダメになる」という政治家・財界の用意したストーリーに大衆が同調して、大衆が政府高官や企業経営者の意見を代弁し、グローバル企業や富裕層のための行政改革・経済政策を支持するという倒錯した風潮が蔓延しています。グローバル企業の利益のための改革・政策を国民の素朴なナショナリズムの感情を利用して推進する、ということは内田樹さんがブログ(憲法記念日インタビュー - 内田樹の研究室)で指摘していますが、腑に落ちます。

 話がすこしそれましたが、この本では、まず「イラク日本人人質事件」の顛末を振り返りながら、大衆が政府与党の目線に立って被害者を罵倒する現象に、「銃後の空気」を心地よく感じる土壌が育っているのではないかと指摘します。そして、その背景として「自動改札機」「携帯電話」「監視カメラ」といったテクノロジーの存在を挙げます。これらは、低コスト・スムーズに改札する、いつでもどこでも電話が出来る、犯罪防止・犯人検挙の役に立つ、など便利なテクノロジーですが、「テクノロジーが人の動きを支配することを便利だと感じる」のが当たり前の社会をつくりつつあります。斎藤貴男さんは権力者が監視カメラを利用して市民の思想や行動をチェックすることを批判しています。私は「支配されること」に慣らされた「やましいところのない一般市民」が監視カメラやGPSなどのテクノロジーを利用して「権力者が犯罪を取り締まる」ことをどんどん要求する、そのことに不安・恐怖を感じます。ひとつは、権力者の都合の悪い人物・批判的な人物の行動を追尾して犯罪者として検挙・排除することで、権力を批判・監視するという民主主義が麻痺して機能しなくなるのでは?ということ。もう一つは、権力者がテクノロジーを利用して犯罪を抑圧すれば万事解決という発想は、犯罪の背後にある問題(貧困・格差・機会不平等など)を社会問題としてみない、個人の努力不足として切って捨てることにつながるのではないか?ということ。さらに言えば、権力・資本・テクノロジーに依存して問題解決をしたところで、市民の不安の根源にあるのは(巨大資本の成長のための共同体解体・労働力買い叩きによる生活の不安定化、「テロ・国家危機」を強調することによって不安心理を煽ることで国民を管理する権力、市民自身による問題解決能力を失わせるテクノロジー中毒・商品依存)ではないか? 権力・資本・テクノロジーが市民の不安を生み出している以上、それらに解決策を求めても、結果的には、より経済的に不安定になったり、別の危機を煽って権力者が国民を管理しようとしたり、市民が無力化することで(自分では解決できない問題がさらに増えて)ますます不安心理が昂進したりするなど、あらたな「不安の種」を育てる結果になるのではないかと感じました。

 こういう話になると「監視カメラと警察権力」の話になりがちですが、「インターネットと巨大資本」というのも、別の意味での危険をはらんでいます。ネット通販のamazonが典型ですが、閲覧履歴・販売履歴をもとにオススメ商品を表示して、消費者の欲望を先回りする仕掛けです。消費者をいかに管理して欲望を先回りするか、それが資本力と(巨大資本に支えられた)テクノロジーに左右されるようになれば、消費者とは巨大資本によって管理される「息をする財布」に過ぎなくなる。その流れを加速させるテクノロジーの一つがインターネットです。そんなことを書きつつ、amazonへのリンクを貼っていますが、リンク先に書かれた書評の方が、私の記事よりも本の内容についてまとまっているので紹介しています(笑)。

 さて、巨大資本の管理する範囲内で「生かされる市民」は、巨大資本による「社会の商品経済化・共同体の解体・労働力の買い叩き」に対抗する力を失っていきます。民主主義は「巨大資本には逆らえない」という言い訳によってどんどん破壊されることにつながりかねません。すでに労働組合は力を失い、地域共同体を守ってきた地方政治・各種団体の力も衰えています。TPP反対運動も広がりませんでした。TPPに参加すれば、その流れはさらに加速するでしょう。巨大資本を優遇する為の法人税減税・その穴埋めとして消費税増税が実施されれば、中小企業や零細自営業者は立ち行かなくなります。

 前回記事の後半の繰り返しになりますが、高度な商品経済(市民生活が商品に依存する割合が高い経済社会)が発展する社会においては、人間は共同体の関係においてではなく、商品の売買を通してしか社会と関われない。働けなくなれば、商品を買う為のお金は行政の福祉制度(年金・生活保護など)に依存することになる。商品を製造・販売するための技術は巨大資本が独占し、市民を管理・秩序を維持するための技術・権力は国家権力が独占している、そうなればその先にあるのは巨大資本と国家権力が一体となって市民を飼いならし、市民は彼らの言いなりになるしかなくなる未来社会です。いまは消費税増税問題にせよTPPにせよ、国家権力・巨大資本が主導する改革に市民も同調せざるをえない風潮になっているので、心配ですね。

 とはいえ、テクノロジーを上手に活用すれば、市民一人一人が知識を蓄えて、資本・権力とは距離を置いて抵抗することも可能です。北アフリカの「ジャスミン革命」がその可能性を示しています。テクノロジーに支配・管理される便利さに対する違和感をもっと大切にしていきたいですね。