ナナメヨミBlog

旧ナナメヨミ日記。Blogに移行しました。

拝金主義の隘路

 アメリカ発の金融危機の影響は実体経済に波及し、深刻化・長期化の様相を呈してきた。それは、アメリカの金融業界や自動車業界の長期低落だけでなく、アメリカン・モデルの崩壊をも意味する。

 バブル崩壊の後遺症に苦しむ日本を横目に、アメリカはIT・金融で隆盛を極めた。日本はアメリカを見習えとばかりに、企業経営や行政運営においてアメリカン・モデルをいかに取り入れるかに腐心した。それはまた、個人レベルの価値規範をも変化させた。「横並び」が批判にさらされ、自由競争が肯定的に受け止められるようになった。ホリエモンに代表されるベンチャー経営者や外資系の金融マンが目指すべきモデルとされた。

 アメリカン・モデルには「自由競争は社会をよりよくする」という新自由主義的思想が根底にある。自由競争によって企業はより良い製品・サービスをより安く提供する、個人は切磋琢磨してより能力を発揮する、行政・教育のクオリティの向上・・・。これらは、金をもっと多く稼ぎたい(手元に残したい)という欲望に支えられている。しかし、身も蓋もない自由競争は、社会をよりよくしたのだろうかというと疑問である。(「社会がよりよくなってないのは自由競争のせいではなく、むしろ自由競争が足りないからだ」・・・竹中平蔵に代表される規制緩和派はそう主張するが、このロジックは検証不可能であり止め処ない規制緩和をもたらす危うい発想である。格差社会の大衆の不安心理を、「政府に守られた郵政事業」に焦点をあてることで、逆に支持に結びつけた郵政解散のレトリックと似通っている。) 
 前回のエントリーで紹介した内田樹「子どもは判ってくれない」(文春文庫)の『ネオコン愛国心』での自由競争に関する記述が参考になる。


 自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
 格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
 ・・・
 なぜ危険かといえば、それはたんに希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるからというだけではない。(中略)成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
 ・・・
 人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いればn分の1になる。
 ・・・
 同じ尺度で定量的に査定されたものたちのあいだにあるのは「序列」と「階層」と「差別」と「羨望」だけであり、それは「多様性」からもっとも遠いものだと思う。

 バブル崩壊で右肩上がりの経済成長や一億総中流の幻想から解放され、自由競争のアメリカン・モデルにシフトしたように表面上は見える。しかし、「豊かさは金で買える」という価値観は更に強化された上で受け継がれているように思える。そして、「格差社会」という言葉で語られる「問題」も同じ価値観の延長にある。
 格差社会って何だろう内田樹の研究室)  http://blog.tatsuru.com/2007/07/24_0925.php


 私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている。
 「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」のことではないのか。
 人々はより多くの金を求めて競争する。競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる。その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・という悪循環には落ちこまないのだろうか。
 私は刻下の「格差社会」なるものの不幸のかなりは「金の全能性」に対する人々の過大な信憑がもたらしていると思う。だから、あらゆる不幸は「金の全能性」によって解決できるという信憑を強化することは、文字通り「火に油を注ぐ」ことにひとしく、ますます格差を拡大し、固定化する結果にしかならないだろうと思っている。

 「高度成長」も「自由競争」も「格差社会批判」も「金さえあればなんとかなる」という価値観からは逃れられていない。「年金問題」もやはり(年「金」であるだけに)、「金さえあれば・・・」の問題である。拝金主義から脱却した、違う価値観を中心に据えた社会にこそ未来があるのだろう。