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知的であるための「構え」

 内田樹「子どもは判ってくれない」(文春文庫)を読む。

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)

 大衆受けのよい「分りやすい単純な正論」がメディアを賑わせるなかで、内田氏の文章は「ややこしい」ものが多い。だけれども、読んでいるうちに「腑に落ちる」。「ややこしい」のに「腑に落ちる」、この不思議な感覚とは何なのだろう。そのヒントが『話を複雑にすることの効用』にある。


 「分りやすい単純な正論」は話の辻褄を綺麗に合わせようとするうちに、意図的に(もしくは無意識的に)話をややこしくする不都合な要素を見過ごす。そして、正論を展開する側はその見解が「正しい」ということを信じきっている。


 正論というのは、「対立者を含んだかたちで全体を代表しようとする」気のない立論のことである。なにしろ「正しい」のであるからして、それに反対する人間は「間違っている」に決まっている。人間、何が哀しくて「間違っている」人間の立場を代表しなければならぬのであろう。
 反対意見とは、正論を押し通すことで「改宗」させなければいけない「間違った意見」であると正論家は考える。いくら議論をしたところで、平行線を辿るばかりで埒が明かない。


 「私は正しい、お前は間違っている」という議論の立て方をする人間は、自分の立論の整合性と他人の立論の破綻を過大評価する傾向を持つ。一方、「未来予測が外れる蓋然性を最小化する」ための議論では、全員が自分たちそれぞれの主張はどこに「穴」があるのかを徹底的に吟味する。それは「私はどんなふうに賢いか」ではなく、「私はどんなふうに愚かであるか」に焦点化した思考である。
 どんな立場であれ、不都合な要素を削ぎ落とした「分りやすい単純な正論」は現実社会の複雑さやさまざまな可能性への想像力を欠くゆえに、「想定外」の事態に非常に脆い。いかに間違っているのかを点検しながら理説を作り上げることは、分りにくさや曖昧さを含みつつ、より汎用性の高い、強度のある理説へと書き換えられる可能性も持つ。


 「折り合いをつける」とか「妥協する」という言葉を多くの人々はネガティヴな意味で用いるけれど、私は「妥協」というのはかなり高度な知的達成であると考えている。

 それはAさんとBさんの二人の対立的主張を含んで代表するからではない。

 そうではなくて、「妥協」が形成される過程で、無言のうちにではあれ、AさんBさん両方が「自分の主張は間違っている可能性もある」ということを承認した、ということをそれは意味するからである。「自分の主張は間違っている可能性もある」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。

 私にとって「腑に落ちる」とは、現時点での私の見解との整合性が取れていることでも、話の辻褄が綺麗に合う正論の筋道の正しさに納得することでもない。「ややこしい」理説は、それ自体をクリアカットに理解することは難しいのだけれども、あらゆる可能性に開かれた汎用性の高さを備えている点で、私のようにあれこれウジウジと行ったり来たりの思索を重ねる人間にとっては「腑に落ちる」のである。「私の主張は間違っているかもしれない」という「構え」で語る内田氏に学ぶところは多い。

 「子どもは判ってくれない」に収録されているのは2001年から2003年にかけて書かれたものである。時事的なトピックを扱ったものも多く、世論の風向きががらっと変わったテーマもあるけれど、今でも「読める文章」になっている。知的好奇心をくすぐらされる良さがある。