ナナメヨミBlog

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安保法案をめぐる論点の整理とこれから

 本日未明(2015年9月19日)、安保法案は参院本会議で可決・成立した。今回の安保法案は日本の自衛隊が海外で活動できる範囲を飛躍的に広げる。憲法9条で認められていない集団的自衛権解釈改憲という「裏口入学」(憲法学者小林節)によって可能にする、専守防衛の枠組みを大きく超えるという意味で今回の安保法案はまぎれもなく「戦争法案」だ。安保法案についてはさまざまな場所でさまざまな人たちが声を上げた。一方で賛成派・反対派がクッキリとわかれたイデオロギー論争になって、議論が深まったとはとても言えない。国会の議論でも首相や防衛大臣の答弁は二転三転して問題点・矛盾が増えるばかりだったのに、「審議時間を消化したから議論は尽くされた」という言い分で強行採決されてしまった。法案の議論は自民党や政府の内部で終わっていて国会審議はあくまでセレモニー・通過儀礼にすぎないというのは昔からよくあるが、ここまで酷い・レベルの低い国会は初めてだったように思う。政治への無関心が蔓延して、安倍政権の暴走をぼんやりと眺めている国民が多い現状では、政権がひっくり返るほどの批判が起こるわけでもなく、強行採決を許してしまった。

 今回の安保法案の議論で賛成・反対を分けた論点、それは「憲法との整合性、法的安定性」の問題である。憲法学者のほとんどが違憲だと断定したために、憲法9条改憲派の学者からも反対論が湧き上がった。憲法を変えて集団的自衛権を実現すればいいじゃないか、という意味での反対派である。安全保障の議論ではたいてい改憲派vs護憲派という形になるので、違憲論がクローズアップされることで従来の垣根・党派を超えた反対意見が広がった。

 それでも賛成派が一定数いたのは「中国・北朝鮮など外国がいつ攻めてくるからわからないのだから憲法無視してでもいますぐ通せ」という外国の脅威、とくに「中国脅威論」が浸透しているからだ。政府自民党公明党が「安全保障環境の急激な変化」と呼ぶ国際情勢の変化をどう捉えるか、それが今回の安保法案をめぐる「隠れた論点」だったように思う。中国の脅威を過大に見積もる人にとっては憲法違反云々などはどうでもいい、日本とアメリカが軍事的に連携しないと中国に攻められる、日本の平和が脅かされると考えているので安保法案賛成になる。中国の脅威はあるが緊急性がないと考える人、もしくは緊急性はあるが憲法との整合性も重視する人は改憲してから安保法案通せという意味での反対派になる。中国との戦争・武力衝突の可能性は低いと考える人には安保法案の緊急性はないし、まして違憲立法なのだからおかしいと考える。
 しかし、この「安全保障環境の変化」について各個人の主観に委ねられていて、客観的・冷静な分析はあまりなされなかったように思う。賛成派は「中国脅威論」をあおるばかりだし、反対派は解釈改憲反対派と護憲派では認識が違うので「違憲な安保法案反対」で足並みを揃えるために安全保障環境の変化に関しての議論を避けていたように思う。

 以上の話では中国脅威論ばかり取り上げたが、私にとって「安全保障環境の変化」でもっとも重視するのはアメリカのアジア兵力削減・アメリカ国内に広がる厭戦論である。イラクやアフガンに首を突っ込んで多くの死者を出して、しかも泥沼にはまる一方のアメリカでは、遠く離れたアジアの戦争で死ぬのは嫌だという厭戦論が広がっている。財政赤字の観点から議会からも突き上げを食らっている。だからアメリカは兵力を削減したい。だけれどもアジアへの軍事的プレゼンスは維持したい。そこで考えたのが日本の自衛隊アメリカの軍事的プレゼンスを補足するために利用することなのだ。アメリカの兵力削減こそが「急激な変化」なのだ。しかし主権国家たる日本では「アメリカのために集団的自衛権を実現します」という本当の話は言えない、だから議論がグダグダになってしまうのである。
 もう一つ。「アメリカが日本を守ってくれているおかげで日本が平和なのだから日本もアメリカを助けるために集団的自衛権を可能にすべきだ」「国際貢献・国際協調のために自衛隊の活動範囲を広げるべきだ」こんな意見もある。しかし馬鹿も休み休み言え、この大馬鹿者が!と言いたい。在日米軍とは戦勝国アメリカが日本をコントロールするために配置した「進駐軍」であり、その最大の目的は日本をアメリカの国益のために利用・監視することにある。アメリカはアメリカの国益のために日本に軍事基地をおいているのであって日本を守るためではないのだ。あくまで「アメリカの国益になる範囲内では日本を守るかもしれない」にすぎない。「国際貢献・国際協調」論もよく聞かれるがアメリカの主導する戦争は「ベトナム戦争におけるトンキン湾事件」「イラク戦争における大量破壊兵器」など謀略的に進められる侵略戦争なのである。アメリカ主導の侵略戦争に加担していないことは誇るべきことであって「一緒になって参加しないと恥ずかしい」ものではない。なによりもアメリカ人が血を流しているのはアメリカの国益のためであって、日本のために血を流しているわけではない。しかもその「アメリカの国益」というのもエネルギー利権・軍需産業利権なのである。世界で起こる武力紛争について漠然と「日本のために戦っている」などと考えるのは、知識がないなら勉強しろと言いたいし、知識があるのなら悪質極まりないデマゴーグだ。

 長々と書いたが、安倍政権・自民党は「法案が通ってしまえばそのうち国民は忘れる」と考えているようだ。60年安保・岸政権退陣のあとは「政治の季節は終わった」と池田政権による所得倍増・高度成長の時代を迎え、国民は豊かになり社会保障は充実し「1億総中流」による国民の統合がすすんだ。イデオロギーより経済・生活の時代になって、安保闘争のような激しい政治闘争は鳴りを潜めた。
 しかし、今の時代はどうだろうか、「アベノミクス」は円安の物価高で国民の生活を苦しくするばかりで賃金も上がっていない。社会保障は削られて格差と貧困がますます広がっている。国民統合どころか国民がますます分断されている。その象徴が「オリンピック利権」をめぐる批判であり、派遣法改悪による格差固定化である。今回の安保反対運動では若者や活動家ではない市民の参加も多かった。格差と貧困で国民の分断を意図的に進めて大企業・富裕層の利益だけをしっかりと確保しようというのが今の政府・自民党経団連なのである。この状況では政治闘争はおさまるどころかますます先鋭化するのではないか、そのきっかけになるのが今回の安保反対運動の広がりだろうと思う。