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新保守層の閉塞感と新自由主義改革の「利害の一致」をただせ

 小泉〜民主党〜橋下と、「有権者がメディアに流されて支持をコロコロ変えている」かのように指摘する人がいるけど、日本の有権者のマジョリティ(=新保守層)が政治に期待することは一貫している。

 地方や業界団体へ利益を誘導する「利益誘導型の保守政治」=(旧保守層)と社会的弱者のための 福祉制度を擁護する「革新勢力」、この二つが抱える「既得権益」「特権」を破壊して都市部の中間層サラリーマンのための社会保障景気対策に金をまわせ、これが 日本の有権者のマジョリティ(=新保守層)である。

 小泉郵政選挙では「業界団体への利益誘導政治」(=特定郵便局)を「ぶっ壊す」とスローガンを掲げて大勝した。その後の自民党は利益誘導政治への回帰や消えた年金問題により支持を失い、民主党政権交代民主党が行き詰まると、今度は地域団体・政官労(オール与党=市役所行政=市職員労組)癒着構造・「革新勢力」攻撃によって橋下が人気を得る。

 都市部のサラリーマンが、旧保守と革新を「自分たちの利益を侵害する敵対勢力」とみなす流れは1990年代にさかのぼる。バブル崩壊の後、経済成長がストップすると、企業はリストラと賃下げ・企業福祉の削減に踏み切った。年功序列・終身雇用神話が崩壊し、「会社でがんばっていれば、一生が保障される」見込みが立たなくなり、社会不安を招いた。定期昇給により年々豊かになると感じ、終身雇用により企業共同体の一員という自覚を持ち、手厚い企業福祉によって安心を得ていたサラリーマンは、その「既得権益」を一気に失った。その後は、企業存続のため、経営者の言い分を丸呑みする労働組合によって、サラリーマンの安定は過去のものとなってしまった。

 企業が提供していた「企業共同体」と「企業福祉」、これによってサラリーマンは旧来の地域共同体を必要とすることもなく、行政による福祉制度・市民サービスも特に必要としていなかった。この「企業共同体」と「企業福祉」が失われたことで、これらを政治的に求める意識が高まった。企業共同体の一体感が喪失したことで「想像の共同体」国家によるナショナリズムの意識が高まり、企業福祉が失われた分は旧保守層や革新層の「既得権益」を破壊することで、サラリーマン層への利益分配を求めた。旧保守層と革新層がもつ既得権益の破壊と、都市中間層への再分配、これこそがサラリーマン層が政治に求めたことであった。しかしながら、企業に雇用されるサラリーマン層は、企業への規制・法人税課税など、企業活動にたいする政治的規制には同意しない点、保守的な側面をもつ。ゆえに、「新保守層」と定義づけた。

 この新保守層の意識をうまく汲み取ったのが、小泉や橋下である。都市部のサラリーマン層の閉塞感とは経済が成長しない(=給料が上がらない)、給料を上げないという、民間経済・企業が根本にあるのに、それを政治による分配機能の不全・不正・不公平の問題にすり替えた。「郵政利権」「土建政治」「公務員組合」、こういった「社会を食い物にする既得権益」によって不利益を被っている、という主張は人口に膾炙した。民主党は「子ども手当」「高校無償」「最低保障年金」など、既得権の破壊だけでなく、再分配もセットで語った分、「まとも」だったのだが、財政危機と見通しの甘さによりマニフェスト撤回が相次いだ。

 この新保守層による旧保守・革新つぶし、というのは新保守層の利益になるように思われているが、現実にはそうはいかない。地域共同体と行政福祉の破壊は、都市の市民のセーフティネットを破壊し、さらなる不況・社会不安を招く。企業活動を野放しにすることで、サラリーマンはますます買いたたかれ、リストラ・賃下げを引き起こす。旧保守・革新をつぶして経済的権益・自由な市場を確保したいグローバル企業の意向に添った、新自由主義型の改革を、新保守層が後押ししているのが実態である。そして、新自由主義型改革は「既得権破壊」により気分的には閉塞感を解消するが、その後にくるのは、企業による賃下げ・リストラであり、さらに閉塞感を高めることになる。

 結局のところ、日本人は「企業経済至上主義」で企業活動の規制や課税強化=自分たちの利益を侵害すると考えてしまう点にこの閉塞感を打開できない根本要因がある。経済的利益以外の価値(共同体の幸福追求/文化・芸術・学問/政治的自由など)を経済的利益と並んで(それ以上に)認める土壌があれば、ジリ貧の経済環境においても、閉塞感を和らげることができる。なのに、あくまでも経済的利益追求にこだわるあまり、企業優位の社会構造に手を付けられずに新自由主義改革によって企業優位をより強化し、新保守層のサラリーマンは経済的利益をも失う(そして、経済的利益以外の価値は眼中にない)、ゆえに閉塞感・行き詰まりを感じてしまうのである。多元的価値を認める社会、企業による消費文化と距離をおく価値観、それをサポートする政治、こういったものこそが必要なのである。