ナナメヨミBlog

旧ナナメヨミ日記。Blogに移行しました。

「ゆとり教育」の再評価がそろそろ必要だ

 教育と名のつくもの・・・人権教育、道徳教育、平和教育、愛国教育、家庭教育、社員教育etc・・・はたくさんある。教育問題を語るには第一に「誰(教育する側)が誰(教育される側)に対して何を(教育するのか)」を明確にしないと、議論の収拾がつかない。ここでは、義務教育のカリキュラムに限定して考える。


 教育の中心的課題は、人材ニーズの充足(子どもの社会的適応)と機会均等だと前回のメモで指摘した。最近の教育問題に学力低下問題があるが、学力低下」を「問題」に結びつけるときに、そこには二つの文脈がある。ひとつは最先端の研究開発を担う技術者・科学者や社会をリードする立場の人間・・・理系文系のトップ層・・・の学力低下と、「九九ができない高校生」のような下支えする層の基礎力不足。これらはいずれも、社会が必要とする人材・・・トップエリートや労働者層・・・を教育しきれていない(社会に供給できていない)という問題だ。もうひとつは、学力低下の元凶をとりわけ公立校のカリキュラム、いわゆる「ゆとり教育」に求め、そこから派生する問題(公立と私立の教育機会の格差・・・さかのぼれば親の経済力の格差が子どもの学力格差とその先の社会階層の格差を生み出す)の解決を目指すというもの。こちらは、教育の機会不平等の是正を求めている。前者は企業や大学など、子どもを受け入れる側が主張し、後者は保護者を中心とした子どもを送りだす側が主張する。学力低下問題はそのいずれの立場からも批判にさらされ、文部科学省は「ゆとり教育」路線からの転換・・・学習内容・時間の増加・・・に踏み切ったわけだが、人材ニーズの充足(子どもの社会的適応)と機会均等という二つの課題に沿った上での結論なのだろうか。そもそも「ゆとり教育」は・・・それ以前の「詰め込み教育」が生み出した紋切り型の受験秀才や落ちこぼれが問題視されて・・・、新しい時代に対応した教育が必要だという流れから出てきたものだ。ペーパーテストで測られる学力にかわる能力が必要だと。にもかかわらず、「ペーパーテストで測られる学力」という否定されたはずの基準で「ゆとり教育」を評価するのは見当違いに思えるがどうだろうか。


 別に私は「ゆとり教育」を擁護しているわけではない。世論に流されて「ゆとり教育」をまともに総括もせず、ごちゃまぜの議論をした挙句に、「昔はよかった」と先祖がえりしたことが問題なのだ。「ゆとり教育」の再評価・・・再評価した結果、否定される可能性ももちろんある・・・、そろそろ必要だと思う。