ナナメヨミBlog

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橋下・維新の会とは何か

 久々の更新である。
 前回更新が2010年4月、鳩山政権なのだから、ずいぶん昔のように感じられる。
 あれから1年半。鳩山政権は倒れ、菅政権が発足するも、消費税増税を争点に参議院選挙に挑んで敗北。
 その後、TPP参加、普天間基地辺野古移設など、自民党政治への回帰でなんとか権力維持を図るもうまくいかず、退陣は時間の問題と思われた矢先に発生した東日本大震災福島第一原発メルトダウンという過酷事故をも引き起こし、日本社会に終戦以来の衝撃を与えた。菅政権は「脱原発」を掲げて政権延命を図るも、9月に退陣。野田政権が発足する。その野田政権はTPP推進、消費税増税自民党以上に自民党的な大企業寄り、財務官僚言いなり、アメリカ言いなり、福祉軽視の政治へと舵を切っている。そんななかで行われたのが大阪W選挙大阪市長選挙大阪府知事選挙ーである。
 「大阪維新の会」を率いる橋下徹・前大阪府知事大阪市長に当選。「大阪維新の会」幹事長、元大阪府議の松井一郎大阪府知事に当選した。
 この維新旋風、橋下人気をどう捉えるか。市長選挙では、共産党系候補者が異例の立候補取りやめをした結果、「反橋下・反独裁」の平松邦夫(現職)vs「大阪都構想・改革路線」の橋下徹(前府知事)の一騎打ちとなった。選挙戦では、平松に自民・民主に加えて、共産党が自主的な支援に加わったこともあって、平松の訴えは歯切れが悪かった。あらゆる層に配慮するというのは、良く言えば「話し合い・合意形成重視の民主的な政治」だが、悪く言えば「決断できない・政治の停滞」である。橋下人気という異様な現象に対して、平松陣営は「反独裁」というテーマを掲げたが、大阪の閉塞感の打破を期待する若年層や経済的に苦境に立つ有権者からみれば、橋下流の独裁政治は、現状打破の可能性をもつ魅力的な選択肢に映ったのではないだろうかと思う。ここでは、橋下・維新の会とは何か、というのを「独裁か否か」という政治手法の問題としてではなく、橋下・維新の会が何を狙っているのかという政治目的という観点から簡潔に解明していきたい。

 橋下・維新の会。彼らの掲げる政策、大阪都構想に代表される行財政改革・成長戦略、教育基本条例・職員基本条例に共通するものはなにか。それは、「競争原理の礼賛」、競争原理への無批判な追従・推進、そして、「選択と集中」、大企業や世界的な競争力をもつ中小企業、エリート人材への資源の集中投下によって、トリクルダウンを実現して経済を立て直すという発想である。そして、「管理主義」、行政や政治家が地域経済や教育現場を管理するーそれは民意の後押しを受けているーによって、経済や教育現場はよりよい状態になるという発想がある。

 まず、「競争原理の礼賛」について。これは、教育基本条例や橋下・松井両名の発言に現れている。子どもに学力を身につけさせる競争原理を徹底させる、教師は学力競争に奉仕させる、そういう教育にする。そのためには教育現場への政治介入もやむをえない。このことで子どもの学力を底上げして、子どもたちが「グローバル競争時代」を勝ち抜けるようにする、就職にありつけるようにする、というのが教育における「競争原理の礼賛」である。しかし、ちょっとまってほしい。学校教育とは子どもに経済的成功を保証する場ではないし、学力偏重の教育が子どもの人格形成を阻害する、という問題について、維新の会はまともに考察した形跡はみられない。さらにいえば、「学力」という「一つの評価基準」で子どもを評価することが学校において落ちこぼれ(=学校における社会的関係からの排除)を生み出すという危機意識はまったくないし、就職できるかどうかは学校教育云々の問題ではなく、経済環境・景気に依存するということについても考えている節はみられない。彼らの教育政策には「競争原理によって学力を引き上げれば、みんなが就職にありつける」という極めて楽天的な発想がある。

 次に「選択と集中」について。エリートへの教育資源の集中投下、インフラ整備によって大企業の「儲けのチャンス」を与える、そのためには低所得者・経済弱者の負担はやむを得ない、という発想だ。競争力のある「勝ち組」に限られた資源を集中することで、庶民にトリクルダウンがある、という考えだ。しかし、橋本龍太郎行政改革小泉純一郎構造改革、「勝ち組」優遇・大企業や高額所得者を優遇する政治が、日本の庶民の活力を削いで日本経済の低迷を招いたという反省は、橋下・維新の会にはまったく見られない。

 最後に「管理主義」。市民や教員・公務員を過度に「政治的に」監視することによって、教員や公務員の仕事ぶりがよくなるのだろうか。むしろ、時の権力者に従順な教員・公務員を生み出すのではないか、社会のメンバー皆が皆「権力者」の動向を伺って「他人と同じように振る舞うことで、攻撃対象とされることを忌避する」という事なかれ主義を蔓延させることになりはしないか。

 なによりも問題なのは「競争原理」が勝者と敗者を生み出すメカニズムであるにもかかわらず、維新の会によればそれは全体を底上げして皆がハッピーになる、という強弁にとどまっていて、競争原理が生み出す敗者・弱者をどうやって保護してケアして社会復帰・社会の一員に組み込むかという対策がまったく見えないことにある。「選択と集中」によって切り捨てられた、商店街や個人商店、ノンエリートをどうやって有効に機能させるのかという発想も、彼らには全くない。「管理主義」が生み出す弊害もそうだ。橋下・維新の会が進めている「競争原理の礼賛」「選択と集中」「管理主義」は過去十数年に日本が国策として推進して失敗し、日本経済・日本社会の閉塞感・無力感を生み出すもとになった。その閉塞感・無力感を、さらなる競争原理、さらなる選択と集中、さらなる管理主義で打開しようというのだから、橋下・維新の会の現状認識は完全な誤りであると断言するしかない。
 競争よりも協調、選択と集中よりも弱者への配慮、管理主義よりも専門家への信頼、そういう質的な転換が求められるが、大阪市民・府民は橋下・維新の会が繰り出す「改革幻想」に惑わされてしまった。せめて、橋下市政・松井府政が実際にどう動くのかを厳しい視線でみて、彼らの政策の矛盾に気づき、政治の質的転換に関心をもつ市民がひとりでも多くなること、そういうことに期待して、そうなるような運動を進めなければいけない。