ナナメヨミBlog

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良い競争、悪い競争

 日本社会は閉塞感に覆われ、経済が低迷し、政治が停滞している。「失われた20年」と言われるが、正確に言うと、「失われた15年」だろう。15年前の1997年には橋本行革路線の元、公共事業がカットされ、消費税増税山一證券北海道拓殖銀行の破綻。四大証券の一角、都市銀行の破綻によって経済が一気に冷え込んだ。翌年は個人消費が急激に悪化し、自殺者が三万人を突破。ここから、日本の「失われた15年」がスタートした(そして、今も継続中である)。
 閉塞感を打開したい、という国民の願いにもかかわらず、ますます状況が悪くなるのはなぜか?
 それは「新自由主義」にある、と私は思う。
 新自由主義は、国民の間で競争を煽り、共同体を解体し、国民を不安に陥れ、経済的に苦境に追い込む。そうすると、政治家たちは「もっと新自由主義を進めれば(もっと競争をして、もっと「既得権益」を握った共同体を解体し、甘えた意識の国民をもっと厳しく追い込めば)、この国は良くなる」と主張して、それが国民の間で広く支持され、もっと悪い状況になる。そうすると、またまた新自由主義勢力が台頭する。これは小泉自民→民主党政権→維新の会への期待という流れである。
 新自由主義とはサッチャリズムとかアメリカ共和党の政治思想とか言われるが、なかなかどうして、発祥の地であるアングロサクソン国家よりも、日本のほうが、広く人口に膾炙しているように思える。それはなぜか?
 日本は元来、台風・地震・火山噴火など気候の厳しい国。そこで、知恵を巡らせて厳しい生存競争に勝ち抜いてきただけあって、新自由主義が全面に押し出す「競争」に対して、肯定的に捉える向きが強いように思う。さらには、近代化の過程では清・ロシアとの戦争に勝ち抜いてアジアの一等国になり、敗戦後は経済競争で高度成長を実現し「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるまでの経済大国になった。その「日本の成功体験」もまた、競争=よいものという意識を支えているように思う。
 しかしながら、競争とは本来、競争に参加する人間の能力を互いに伸ばして、トータルでプラスになる、そういうものでないといけない。競争の結果、社会が衰退するのなら、競争を規制したほうが社会が豊かになる。受験勉強やスポーツの「ライバル関係」のように、お互いが切磋琢磨して能力を伸ばし合えば、それは「良い競争」といえる。しかし、大企業と中小企業のようにもともと力関係に大きく差が開いているところに「競争」を持ち込むと、それは大企業と中小企業が切磋琢磨するのではなくて、単に巨大資本が金にモノをいわせて、中小企業を圧倒する、という単なる「弱いものいじめ」になってしまう。新自由主義の政治家がいう「競争」とはもっぱら経済分野の、労使関係や企業競争に関するものなのだから、これはもう、社会にとってプラスになる競争というよりもただの「弱い者いじめ」を公言することに等しい。だけれども、日本人には「競争=切磋琢磨」という「良い競争」のイメージで「新自由主義」を支持してしまうから、こういう新自由主義がさらなる新自由主義を呼び込む悪循環に陥ってしまう。
 こんな悪循環を断ち切って、社会の問題を取り除くにはどうすればいいのか、国民ひとりひとりが向き合わないといけない。