ナナメヨミBlog

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内田義彦「読書と社会科学」(岩波新書,1985年)

 このブログは「ナナメヨミ日記」というタイトルで読書を通じて政治経済社会を考えることをコンセプトにしています。そうなれば当然、読書とは何か?本をどう読むか?という問題はつねにつきまといます。今回紹介する本は内田義彦「読書と社会科学」(岩波新書,1985年)です。
 

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 まず、本をどう読むか?という問題では二つの読み方があるといいます。それは「情報として読む」か「古典として読む」か。「情報として読む」というのは新聞や情報誌などの読み方、新しい事実や知識を取り入れる読み方ですね。「古典として読む」とは、「自分の眼の構造を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変わる」、そういう読み方です。ここで問題としているのは古典をどう読むか?です。

 古典として読むとはどういうことか。まず第一に古典は一読明快ではない、二度読めば変わるのが古典です。第二にどう読むかで読みが違ってくる。ぼやっとして読んでもダメ、踏み込んで文章と格闘して初めて中身が分かってくるのが古典です。第三に人によって読み取り方、受け取り方が違ってくる、古典はていねいに読み込むほど読み方が個性的になるものです。

 ではどうやって読みを深めるか。古典を勉強会・読書会などで読みすすめていくと、各人バラバラな読み方だったのが最大公約数的な共通認識にいたるようになる。しかし、さらに読み深めると各人各様の理解に到達していく。そこに古典の面白さ・奥深さがあるわけですね。しかし、勉強会・読書会では最大公約数的な一致を狙うことを目標にしてしまいがちです。一致した認識に到達することを目指してしまう。各人の個性的な解釈を排除しないと「客観的・正確」にならないという思い込みがあるからですね。そうならないよう注意しないといけない。

 そして、本を読むからにはまず「信じてかかれ」。学問というと批判的に物事を考える、とにかく批判しようという発想がありますが、なんでも疑えばいいというわけではありません。「疑いの底に信ずるという行為があって、その信の念が「疑い」を創造に生かしている」、疑う前に著者を信じないといけません。そして、自分の読み方に対する信念があってこそ、「疑問」がはっきりとした形で起こり、探索につながっていくのです。著者に対する信はいるとはいえ、自分を捨てて著者にもたれかかってもいけません。この「信」がなければ、適当に読み飛ばす・粗読になってしまいます。「ナナメヨミ」ではいけないわけですね。反省させられます。
 著者に対する信と自分に対する信という「二つの信念に支えられて念入りに、注意深く事実を見るという行為があって初めて、「疑い」が現実に学問的探求の母となるのであって、その裏打ちがなければ、疑いは、漠然とした、消極的で不毛なフィーリングに終わって、本文解読の積極的な活動を生む源にはなってきません(P42)」。疑問というのは漠然とした形では学問的探求・探索につながらない、はっきりとした裏打ちが必要になるわけです。

 また、踏み込んで深く読むためには、ちゃんとした本を読む必要があります。「へなちょこ本」ではダメです。みだりに感想文を書くな、感想文を書くための読書では本末転倒、「他人向けの」「手際のいい」感想文に向かって本を読む癖がついてしまうからです。

 以上が「読書と社会科学」の前半部分のまとめです。後半では、社会科学の概念装置をどうやって自分のモノにするか?について書かれていますが、ここでは触れません。私なりに思うのは、本をきっちりと読むには著者・著書に対する信頼がないとダメなんだなということです。言い換えれば、信用できない人物の著書、信用できない人物がおすすめする本を読むことは避けたほうがいい。読んだところで、「疑ってかかっている」わけだから情報のつまみ食い程度にしかならなくて、得るものが少ない。もちろん、情報を得るため・批判するために、あえて対立する立場の著書を読むことはありますが、それ以上の価値はない。人生の時間は限られている以上、信頼できる本を読むことが大切であり、本選びが重要になるのだなと考えさせられました。古典に取り組むのはじっくり読む時間的余裕・精神的余裕がないので大変なんですが、チャレンジしてみたいと思っています。このブログでも取り上げてみたいですね。