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松本創「誰が『橋下徹』をつくったか」(140B、2015年)

 大阪ダブル選挙から1週間が過ぎた。吉村新市長・松井知事は「都構想」再挑戦を表明し、住民投票否決によって解散した「府市統合本部」に代わる「副首都推進本部」を設置する方針である。「市民切り捨て、住民自治壊し」が本質の「都構想」はなんとしても止めなければならないと思う。橋下維新に対抗するにはなぜ橋下維新がこれほどまでの影響力を持つようになったのか、その背景を知る必要がある。ダブル選挙に照準を合わせて橋下維新・都構想関連の本がいくつも出版された。今回紹介するのは松本創「誰が『橋下徹』をつくったか」(140B、2015年)である。

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

 著者の松本創は元神戸新聞記者で現在はフリーランスの記者である。橋下維新をめぐるメディアの動きがテーマになっている。過去のネット記事が中心になっている。関西ローカルのテレビ番組(特に情報番組)を見る機会の多い人には橋下人気を主導したのがテレビ局だというのはわかるが、そうでない人・関西以外の人にはなぜ橋下がこれほど人気なのか分からない人も多い。この本を読めば、関西のテレビ局が作り出した「空気」によって橋下人気が作られていったというのが理解できるだろう。
 私もこのブログで橋下維新を生み出した背景としての関西ローカルのテレビ報道・情報番組について書いたことがあるが、キーワードは「身内意識」である。テレビタレントとして引っ張りだこだった橋下はテレビ関係・芸能関係の人脈が幅広い。やしきたかじん島田紳助といった大物に気に入られていた。トミーズ雅やハイヒール、たむらけんじといった中堅・ベテランクラスとの親交も深い。大阪の情報番組にはたいていお笑い芸人がコメンテーターにいて、ニュースを流したあと彼らがいろいろとコメントをする。橋下と仲のいいお笑い芸人にとって「身内」である橋下に対するコメントは擁護・絶賛一色になる。政治や行政の仕組みに関する知識・問題をすっ飛ばして、橋下の姿勢・物言い・態度に好感・親近感をもっているのである。橋下のパフォーマンスとは芸人が観客・視聴者を巻き込むパフォーマンスと同じだから、「自分たちと同じように振る舞う」そのパフォーマンスに引き寄せられるのである。
 同様にテレビ局記者も「橋下徹」という視聴率の稼げる「美味しいコンテンツ」を手放したくないと考えて、橋下に対する鋭い批判・指摘よりも、橋下を持ち上げて取り入ろうとするようになる。これまでの政治家と違って毎日取材に応じてくれる橋下はありがたい存在であり、記者の中には「橋下といっしょに役所を改革している」という「身内意識」「同志意識」「連帯感」をもつ者が多くいたという。自分の商品価値を熟知している橋下は「取材拒否」という切り札を利用して新聞記者・テレビ局記者を巧みにコントロールし、橋下に対する批判を許さない空気を作り上げていく。橋下を商売に利用しようとした記者達はいつしか橋下に利用される「御用メディア」になってしまったのである。批判や都合の悪いことを言う記者に対してはツイッターYouTubeといったネットメディアを使って吊し上げを行い、それを見た橋下シンパたちが橋下に同調して罵倒コメントを書き連ねたり、新聞社やテレビ局に抗議を入れるようになる。ジャーナリストである前にサラリーマン・会社員である記者達にとって「会社・組織に迷惑がかかる面倒ごと」はなるべく避けたい。こうして橋下維新をめぐる報道から批判は消えていき「両論併記」が精一杯になってしまった。


 私達が考えなければならないのは、橋下が「言論の自由」「民主主義」「地方分権」といったメディアが批判することなく持ち上げてきた言葉を武器にしてメディアを乗っ取り、「言論の自由」「民主主義」「地方分権」を壊そうとしていることである。「言論の自由」を武器にしてメディアに圧力をかけ、「民主主義」を武器に選挙と多数決を絶対視して議論を封殺し、「地方分権」と言いながら首相官邸の圧力を利用して地方政治を捻じ曲げようとするのが橋下なのである。なんとなく「言論の自由は素晴らしい」「民主主義は素晴らしい」「これからは地方分権の時代だ」という価値観を刷り込まれているところに橋下が登場して、これらの言葉が骨抜きにされてしまった。メディアの作法を知り尽くしている橋下とメディアの価値観を刷り込まれている視聴者が強力に結びついて、橋下人気を作り上げることになった。メディアの作法にのっとって動く橋下をメディアは的確に批判することもなく現在に至っている。私たちは「言論の自由」とは何か、「民主主義」とは何か、自分たちの言葉で語り、その意味を問い直す必要がある。橋下維新のあり方を的確に批判するための「土台」は言葉である。その言葉が揺らいでいる状況では対話が成り立たない。メディアと権力が一体化した今の大阪では、市民がメディア=権力連合を突き放すパワーを持たなければいけない、そう考えさせられた。