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「ネット右翼」の危機

 はてなブックマーク - J-CASTニュース : 政権交代で「ネット右翼」危機? 2ちゃんねるでも潮流変化か


 先の衆院選自公政権は大敗、民主党が308議席を獲得し、政権交代がまもなく実現することになる。ネット上ではながらく「ネット右翼」が幅を利かせてきた。特に2ちゃんねるニコニコ動画では、右翼的なコメントが多数派を占め、自公政権への異議を唱えるコメントにはレッテル貼りや罵倒のコメントが相次いだ。そもそも、この「ネット右翼」とは何なのかを私なりに考えてみたい。

 右翼思想の歴史を語るのは私には荷が重いので、ここでは触れない。戦後とりわけ高度成長期以降は左派が知識人やマスメディアの主流になったこと、一方で右翼はマイナーな政治思想として細々と生き延びてきたことをとりあえず頭に入れておきたい。

 近年の右傾化とよばれる現象が起こり始めたのは1990年代後半からである。山一證券北海道拓殖銀行といった大手金融機関の破綻(1997年)によって、国民の「終身雇用幻想」が急速に失われた。良い大学にいって大企業に入れば安定した生活を送れるという「幻想」が崩れたことで、社会不安が急速に高まった。自殺率は1998年に急激に跳ね上がり、個人消費も急速に悪化した。安定した生活を保障する「企業」、企業に入るために勉強する場となる「学校」、世帯主の経済的安定に裏付けられた「家庭」、戦後日本を支えたコミニティのぐらつきによって、頼るあてを失ったと感じる国民が多くなった。とりわけ若者は企業の新規採用抑制・凍結もあって、社会からの疎外感、孤独感を味わうことになった。

 時を同じくして、小林よしのり戦争論」(1998年)、ナショナリズムを訴える小泉政権成立(2001年)、日韓ワールドカップ(2002年)など、ナショナリズムを高揚させる出来事が相次いだ。社会から見捨てられたと感じ、頼るあての無い人々にとって「日本人である」という条件のみで一体感を味わえるナショナリズム、右翼思想は彼らの傷を癒す役割を果たしたように思う。さらに、企業や地域社会での活動と違い、ナショナリズムは「私は愛国者である」と名乗り出るだけでよく、義務を果たしたり、活動に時間を割く必要もない。コストゼロである。同時期に普及したインターネットが、右翼思想を表明する場として機能し、「ネット右翼」を生み出した。北朝鮮問題という「外敵」の存在もあって、右翼思想は程度の差はあれ、一般にも受け入れられるところとなった。時の権力者、自民党政府も靖国参拝イラク人質事件の「自己責任論」など、右翼思想を後押しするような言動を繰り返し、容認した。

 しかし、右翼思想はあくまでもイデオロギーであって、それ自体で現実社会を良くするわけではない。小林よしのり戦争論」に端を発した右翼思想は反米か親米かという現実的な問題によって論者は分裂した。拉致問題も、北朝鮮の巧みな外交戦術に翻弄され解決の糸口を見出せない。なによりも格差社会の下層に釘付けにされた人々の生活を改善するわけでもない。右翼思想は次第に退潮していく。 
 21世紀の「ネット右翼」には排外主義的な愛国思想とともに、新自由主義自民党政府を礼賛する傾向がある。リーマンショック以降の不況による失業者に対し、ネット右翼は「自己責任」だと罵声を浴びせた。そこが「ネット右翼」の限界だったように思う。見捨てられていた人々を救済する役割を果たしていた右翼思想が、弱者を切り捨て罵声を浴びせる品性下劣な排外主義と化してしまった。右翼思想が現実を解決しない苛立ちから、「ネット右翼」は現実の問題から目を背け、偏執狂的に自らのイデオロギーを連呼する「街宣右翼」と同じ存在に成り果ててしまった。一般の人々からみれば、「ネット右翼」の唱える「愛国」は、冷酷な差別主義、排外主義、盲目的な体制擁護にしか見えなくなってしまった。「ネット右翼」は一般の支持を失い、「ネット右翼」と瓜二つのネガティブキャンペーンを展開した自民党は総選挙で大敗を喫した。

 不況期に右翼思想が台頭したように、右翼的な勢力が盛り返す可能性はまだある。しかし、それは現実に即した地点から出発した「健全な保守主義」であって、ネットで空理空論を唱える「ネット右翼」ではないだろう。「ネット右翼」はかつての連合赤軍のように誰からも相手にされず、化石のような存在になるだろう。