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「ポスト戦後社会」を読み解く

 吉見俊哉「ポスト戦後社会」(岩波新書)を読む。

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

 岩波新書の「シリーズ日本近現代史」全10巻の第9巻である。最終巻は「日本の近現代史をどう見るか」(2009年1月時点では未刊)と題して近現代史を総括するものなので、「ポスト戦後社会」がこのシリーズでは最後の時代を論じている。

 「ポスト戦後社会」が指し示す時代はいつなのか、はっきりとはしないが、おおよそ高度成長が終焉した1970年代前半以降なのだろう。左翼運動、消費社会、郊外化、核家族、地域開発etcのキーワードでポスト戦後社会を点描している。現代はまだ歴史的な評価が定まっていない時代であるだけに、直線的な流れを記述するための軸がはっきりしない。点の集合で淡いイメージを描き出さなければならない。いくつかのキーワードに、阪神大震災ロッキード事件あさま山荘事件といった代表的な事象を重ねることで、イメージをくっきりと描き出そうと著者は試みている。だけれども、著者の研究成果に断片的に歴史的事象を織り交ぜた、中途半端な一冊という印象は否めない。これは著者の力量というよりも、現代を歴史として記述することの難しさや新書サイズの制約によるものだから仕方ないだろう。

 「ポスト戦後社会」のキーワードを基に、私なりに現代とは何なのかを少し考えてみたい。
 高度成長以前とそれ以後で、日本人の生活は劇的に変化した。大量消費の時代になり、モノが溢れ返るようになった。最近では「若者の○○離れ」がよく言われるが、その若者でも自分の部屋を持ち、一通りの家電を揃え、大量生産された食品や衣料・雑貨を購買していることを思えば、かつての時代と比べれば依然として消費指向的だ。この「劇的な変化」をもたらしたのは何なのか。私なりの答えは流通革命「共同体の解体」だ。
 「流通革命」とは、はてなキーワードによると「総合スーパーマーケットによる豊富な品揃えと大幅な値引き販売で顧客を集め始める手法」というように、おもに小売業の販売手法を指す。私はもっと広い意味で「流通革命」を考えてみる。流通革命」をもっと広く捉えれば、ヒト・モノ・カネ・情報・サービスの流通技術の進化に伴う、「流通コストの低下・流通スピードの向上による流通の量的拡大・質的変化」だといえる。スーパーマーケットの登場が大量生産・大量消費社会の「モノの流通」を支えた。テレビジョンは欧米の消費文化の紹介や新商品の広告といった「情報の流通」を支えた。家に居ながらにしてさまざまな文化に触れることが可能になり、大量の広告宣伝がお茶の間に流れ続けた。新幹線や高速道路網・飛行機・バス・地下鉄といった交通機関は「ヒト・モノの移動」の低コスト化・高速化を実現した。とりわけ、高速道路網の拡充は商品流通網を地方に広げることで、地方にも都市の消費文化をもたらした。この「流通革命」の流れは東京や大阪に限って言えば、ミニチュア版「流通革命」というべきものが戦前から存在した。鉄道会社の沿線開発や新聞社の宣伝競争である。鉄道会社はターミナル駅に百貨店を開業し、沿線に遊園地・野球場を建設し、寺社仏閣に接続した。鉄道会社はそれらを宣伝することで、鉄道利用を促した。ホワイトカラーの中間層が形成されると、郊外住宅地を開発し、鉄道の通勤需要を開拓した。「鉄道」を媒介項(メディア)に、ヒト・モノ・情報・サービスの流通を促した。新聞社はさまざまな催し(美術展・高校野球大会etc)を自らの新聞で宣伝して、部数を伸ばした。鉄道利用の促進や新聞部数拡大といったメディアそれ自体の利益の追求が原動力になっている点や、その質と量の違いという点で、戦後の「流通革命」とは決定的に異なるのだが、その萌芽が感じ取れる。*1
 戦後の「流通革命」はスーパーマーケットの急成長・テレビの普及・東海道新幹線の開通etc、高度成長期に流通の量的拡大を実現した食料品・日用品を大量消費し、日々進化を遂げる工業製品を手に入れ、行楽地や観光地に気軽に出かけられるようになった。パルコの広告戦略・ファッション雑誌の相次ぐ創刊・高速道路網の拡大etc、70年代〜80年代にはその質的変化(多様化/メディアミックス/記号消費化etc)を遂げた。ブランド品やファッション、音楽やマンガといったポップカルチャーの消費は、その「細かな差異」によって自己を形成し、演出することにもなった。自動車の普及は個人の自由な移動を実現し、海外旅行はそれを地球規模で実現した。90年代以降はインターネット・携帯電話といった新しい「個人メディア」の登場がさらなる変化をもたらすのだが、ここでは触れない。
 では、この「流通革命」が何をもたらしたのか。それが、二つ目のキーワード「共同体の解体」だ。旧来の共同体が危機にさらされ、邪魔者扱いされるようになったのが、この時代の特徴だ。流通革命」により、ヒトの移動が自由になると、地域共同体の存続は困難になる。働き手が都市に流出し、休みになれば行楽地に気軽に出かける。転勤・転職によって住む場所を変えることが珍しくなくなると、地域共同体の営みは困難になる。モノ・情報の流通の量的拡大・質的変化によって、地域共同体に経済的に依存する必要性が薄れる。メディアを通じて必要な情報を入手できるため、情報ネットワークとしての意味合いも弱くなる。消費生活を謳歌する上では、個人の自由・個人の時間・個人の空間を確保することが重要になるのだが、共同体は必要性が低下するだけでなく、邪魔者として敬遠されるようになる。大家族から核家族、一人暮らしへと生活単位を小さくすることで「より豊か」な生活を指向するようになった。
 「流通革命」によって消費の量的拡大・質的変化を遂げ、共同体が解体されて生活単位が核家族/個人へと小さくなった。これは、生産−流通−消費の流れのうち、流通−消費に主にスポットを当てた分析だ。他方では、労働−生産・流通の関係の変化もある。個人がその活動エネルギーを賃労働に集中的に投入するようになった。必要なモノ・サービスはすべて労働で稼いだ賃金で手に入れる、地域共同体の意味が薄れ、会社共同体(子どもにとっては学校共同体)が圧倒的存在感をもつようになる。

 こうやって私なりに「ポスト戦後社会」を眺めてみると、そこには豊かさと貧しさが隣り合わせで存在する社会であるように感じる。流通の量的拡大と質的変化は圧倒的な量のモノと情報をみずから選び取って消費する豊かさをもたらした。*2一方で、消費による豊かさの実現に没頭するあまり、人のつながりは薄れ、活動エネルギーの大半を会社での労働に投入して、生活空間を協働によって維持する精神は失われてしまった。消費と労働のウエイトばかりが増し、文化的な楽しみや人とのつながり、身近な空間を「みずからの手で」よりよくする機会が失われてしまった。消費と労働、それを結びつけるのは「カネ」である。金が何よりも重要という拝金主義の風潮を生み出した。
 「ポスト戦後社会」には、音楽や映画・ドラマ、マンガ、ファッション、レジャーといった豊かな消費生活がある一方で、その裏面には公害・環境破壊・サービス残業といった大量生産・過剰労働をめぐる問題がる。さらには、共同体の解体が「個人の自立」を要請することで、経済的弱者の疎外、孤独死・自殺の増加、未婚率の上昇といった寒々しい人間関係を出現させている。この貧しさは一人で生活空間を維持できる/生きられるという錯覚*3がもらたらした現象なのだろう。この現象を煎じ詰めれば、「生きる意味」「生きるリアリティ」を失うことにつながりかねない。「ポスト戦後社会」が、「流通革命」と「共同体の解体」によって特徴付けられるならば、さらにその先の「脱ポスト戦後社会」もしくは「ポスト・ポスト戦後社会」*4は、「通信革命」と「共同体の再編成」がキーワードになるのだろうか。既にその時代に足を踏み入れているのだろうか。

*1:戦前の鉄道会社の沿線開発・新聞社の文化活動は橋爪紳也の研究が詳しい

*2:消費を通じて「自己」を形成して「選択する自己」という虚構を生み出して豊かさの実感が可能になるという、迂回的な側面もある

*3:実際には経済的ネットワークの複雑化・進化によって、より多くの人間に依存している

*4:post-post-post-war・・・英語で表記すると訳が分らなくなる