1970年代 自民党の派閥抗争とは何だったのか
沢木耕太郎『危機の宰相』を読み、自民党の歴史に興味を持ったので、北岡伸一『自民党』(中公文庫)、福永文夫『大平正芳』(中公新書)の二冊を読んだ。
- 作者: 北岡伸一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/07/01
- メディア: 文庫
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- 作者: 福永文夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/12/01
- メディア: 新書
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私の関心は『危機の宰相』池田勇人が亡き後の1970年代にある。国内では、高度成長が終焉し、オイルショック・公害問題・過密過疎etc、様々な社会問題が噴出した。海外では、ニクソン・ショック、ベトナム撤兵によるアメリカの威信低下、米中接近など国際関係の枠組みが大きく変化した。この混迷の時代に政治はどのように揺れ動いたのかを学ぶことは、現代的な意義が大きい。
1970年代の政治といえば、「田中角栄逮捕」「三木おろし」「角福戦争」「40日抗争」など、自民党が内輪の派閥抗争に明け暮れた印象が強い。しかしそれは、国内外の経済社会の急激な変動で、国民・政治家双方が政治におけるコンセンサスを見出せなかったことの表れではないか。『危機の宰相』を読むうちにそう感じて、私は興味を覚えた。
田中角栄から大平正芳までの政権の軌跡を『自民党』の章立てに沿って簡潔にメモする。*1
- 田中角栄と列島改造
- 三木武夫と保守政治の修正
- 福田赳夫と全方位外交
- 党改革(派閥解消の推進、総裁予備選の導入)
- 与野党伯仲による内政停滞(予算案の議会修正)
- ロンドン・サミット(1977年)「機関車国理論」
- 東南アジア訪問(1977年)「福田ドクトリン」
- 総裁予備選敗北、退陣(1978年12月)
- 大平正芳と新しい保守のビジョン
佐藤内閣末期の課題は日中関係の解決であった。
七一年夏から起こった澎湃たる中国ブームは、こうして、佐藤、福田(当時外相)の無為を際立たせることとなり、日中関係の解決は、佐藤や佐藤亜流政権では不可能だと、多くの人が主張するようになったのである。それだけではなく、秘密主義で、分かりにくい、待ちの政治に、国民は倦んでいた。もっと分りやすい、明確な政治を求めるようになっていた。*2
早くから佐藤の後継者と目されていた福田は、外交のつまづきで評価を落とした。佐藤亜流の政権では、次の選挙は戦えない、という若手からの突き上げで、各派は田中支持に回り、総裁選で勝利した。田中は日中国交正常化を成し遂げたが、インフレやオイル・ショック、東南アジアの反日運動などの課題に対処しきれなかった。田中への期待は短期間で失われ、最後は自らのスキャンダルで幕を下ろした。
ポスト田中選びは難航し、「椎名裁定」により三木武夫が選ばれる。三木武夫は戦前に初当選し、戦後は保守の傍流を歩み、自民党に入ってからも主流派とは距離を置いてきた。「何ものかへのアンチテーゼを持ち出す」「行き過ぎにブレーキをかけるタイプ」の三木が、行き過ぎた金権政治が批判され「独断と暴走」と揶揄された田中角栄の後任として選ばれたのは、決して偶然ではないだろう。しかし、「アンチテーゼはあっても、テーゼはなかった」三木では政権を取ったところで、何ができるわけでもなかった。政治資金規正法の改正や独禁法改正など、保守政治の修正を試みたが中途半端に終わり、衆院選の敗北によって退陣に追い込まれた。
福田赳夫は、党内基盤を大平に握られ、国会は与野党伯仲の状況で、総理に就任する。内政では身動きが取れないなか、サミットや東南アジア訪問などの外交で成果を上げる。支持率も徐々に上昇したが、総裁予備選で大平に敗れ、本選を辞退。あっさりと身を引いた(以上、『自民党』より一部引用)。
大平正芳は、日米同盟を強化し、日本を「西側の一員」と位置づけた。衆院選では財政再建を掲げ、一般消費税の導入を訴えた。高度成長経済以後の日本の社会のあり方として「経済の時代」から「文化の時代」への転換を唱え、政治的課題の解決を「田園都市構想」と「家庭基盤」の充実に託した(『大平正芳』より一部引用)。大平は選挙期間中に急死し、大平派の鈴木善幸が「和の政治」を掲げて総理となる。
1980年代は日米同盟と行財政改革をテーマに、安定した自民党政権が続く。派閥抗争も鳴りを潜めた。鈴木は行政改革を推進、中曽根は日米同盟を強化して行政改革も実現した。財政改革の仕上げとして、竹下登は消費税を導入する。混迷の1970年代、最後に登場した大平の示したビジョンが、自民党政治の再生を方向づけたのである。だが、大平政権自体は、四十日抗争・ハプニング解散と混迷を極め、さしたる成果を残すことなく、大平の死によって幕を下ろした。
こうして1970年代の自民党政治を振り返ると、金権政治からクリーンな政治へ、全方位外交から「西側の一員」へ、とめまぐるしく変化した。自民党の得票率は低下し続け、政治は不安定化した。1960年代の自民党政治が「日米安保」と「所得倍増」によって、黄金期を築いたのとは対照的である。
新たな方向が定まらないがゆえに、自民党はまとまりを欠き、派閥抗争を繰り広げ、金権政治が蔓延した。同じような現象は1990年代にも起きた。短期間で首相が交代し、自民党は下野した。非自民の連立政権も長続きせず、自民党を中心とした連立政権となった。2000年代は日米同盟の強化と構造改革路線(行財政改革・規制緩和による経済成長)を掲げる小泉純一郎が一時代を築いたが、ここにきて政治は再び不安定化しはじめた。
一九七〇年前後、この国はもう一つの「転換」に立ち会うことになった。外には二つのニクソン・ショックが引き起こした国際政治経済秩序の変化、自身と威信を失いつつあるアメリカがあり、内には高度成長が産み落としたさまざまな問題があった。指導者たちには、新たな方向と指標を探るという宿題が課せられた。それは、戦後保守が変身するために必要とした、産みの苦しみの一〇年のはじまりであった。*3
大雑把に言えば、1960年代以降、政治は安定期・不安定期のサイクルを20年毎に繰り返している。ここ数年でアメリカを中心とする国際経済秩序が軋み始め、中国の経済的プレゼンスは拡大した。新自由主義路線で国民は疲弊し、国内経済は失速しつつある。この状況は1970年前後と似通っているように思える。これからの十年、日本の政治・経済はどのように揺れ動くのだろうか。