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「生きづらさ」について

 雨宮処凛萱野稔人『「生きづらさ」について』(光文社新書)を読む。

 終戦直後やアフリカの難民キャンプのような「絶対的貧困」からかけ離れた現在の日本。若者の「生きづらさ」と言っても、年配の世代にはなかなか理解されない。私も「生きづらさ」を感じていても、それを言葉で説明するのは難しい。そんな「生きづらさ」とは何なのかについて語った一冊。



社会的・経済的な「生きづらさ」と精神的な「生きづらさ」

 「生きづらさ」について二つの側面から議論をすすめている。
 一つ目は、社会的・経済的な「生きづらさ」。低賃金・不安定な非正規雇用・・・派遣・フリーター・・・では、まともな生活ができない。家を借りることも、結婚して子どもをつくることも困難になる。職場でもまともな扱いは受けられない。

 二つ目は、精神的な「生きづらさ」。家族や地域社会といった共同体は、『「無条件に認めてくれる居場所」を、所属によって与えてくれる』(P87)。そういった共同体の影響力が弱まった現代の「コミュニケーション重視型社会」、『そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められるよう努力しなくてはいけない』(P87)。要求されるコミュニケーション能力が高い、他者から承認されることのハードルが非常に高くなっている。人から認められないことで精神的な「生きづらさ」を強く感じるようになる。

 二つの「生きづらさ」は重なり合う部分が大きい。「取り替えのきく」非正規雇用では、仕事で他者から認められることが少なく精神的に「生きづらく」なる。精神的な「生きづらさ」から引きこもりやメンヘラーになると、非正規雇用でしか働けなくなる。



「自己責任」とナショナリズム・労働運動

 こういった「生きづらさ」の問題にたいして、自己責任だとする風潮が根強くある。「非正規雇用なのは本人の努力が足りないから」「うつ病は甘え」・・・。「生きづらさ」を抱える人たちは『「自己責任」の考えを強く内面化してしまう』(P96)。「自己責任」の発想は、自分自身をさらに追いこむ。最終的には自殺するしかないという状況になる。

 雨宮は自身の経験から自己責任に向かうよりはナショナリズムに向かうほうがマシだと考える。アメリカと戦後民主主義が悪い、そう考えるようになったら、リストカットオーバードーズ(薬の大量摂取)から解放されて生きやすくなったという。自分自身の「生きづらさ」について社会的・経済的な問題と考えることで、「自己責任」の呪縛から逃れられるようになる。労働運動も、経済的な「生きづらさ」は新自由主義の労働政策・社会保障が悪いからだ、と社会の問題として捉える点でナショナリズムに通じる。雨宮の右翼活動から労働運動へという経歴は無節操にも思えるが根っこの部分ではつながっている。フリーターのデモに共感するネット右翼の若者がいたりと、旧来的な右翼・左翼の分類は曖昧になりつつある。



「生きづらさ」をどう乗り越えるか

 「生きづらさ」について、雨宮・萱野両氏はナショナリズムや労働運動に生き延びるための活路を見出している。それは一つのあり方なのだが、雨宮が右翼活動に疑問を抱いて辞めてしまったように、思想や運動で生き延び続けるのは難しいように私には思える。ナショナリズムが下火になったように、労働運動が壁にぶち当たって停滞する日も遠くないだろう。全共闘以降の左翼運動が行き詰ったように。

 「生きづらさ」からなぜ逃れられないのだろうか、それは「生きづらさ」を生み出す社会・経済システムが一方では自己実現や豊かな生活をもたらしてきたからだと私は思う。共同体の縛りがなく個人の競争して能力を発揮する社会でこそ、自己実現が可能になる。人間を共同体から解放して資本主義的生産の労働力として活用することで、物質的な豊かさがもたらされる。経済成長期には物質的豊かさは誰もが享受でき、自己実現も可能だった。共同体の影響力もそれなりに残っていた上、職場も共同体として機能していたので精神的な「生きづらさ」も少なかった。現在のコミュニケーション重視型社会での能力の高い人は、仕事で認められ経済的に豊かになり結婚もしやすい。一握りの「勝ち組」はかつてないほどの社会的承認と経済的豊かさを手にしている。一方で仕事での承認も経済的安定も結婚も実現できない人々がいる。経済的格差を是正して貧困をなくす労働運動は重要だが、「生きづらさ」をごまかしつつ何とか生き延びる術を・・・人生のモデルコースに寄りかかるのではなくて・・・模索しないといけない、そんなふうに感じた。