ナナメヨミBlog

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社会保障の基本は「公助→自助→共助」である

 前回記事で「老後のお金」について考えたが、老後の生活を支える基本は公的年金である。そして医療・介護では公的な医療保険介護保険をベースにしている。日本の年金・医療保険制度で老後の費用の大半はカバーできる。しかし、少子高齢化財政破綻、年金カットなどという話が一人歩きするせいで、公的な制度に対する不信感が膨れ上がって、老後資金を自力で確保しないといけない→だから節約だ投資だ貯蓄だ、という話になりがちだ。私は中小企業・自営業者と関わる仕事をしているが、民間の生命保険・年金保険を掛ける一方で、国民年金は支払わない自営業者もちらほらいる。彼らは「政府を信用できない」「私が老人になったころには年金をもらえない」「政治家は信用していない」と口々に言う。彼らの言い分は理解できるとはいえ、実際には民間の個人年金よりも公的年金制度のほうが優れている。所得から全額控除できるから節税になるし、障害年金・遺族年金も兼ねているし、死ぬまで年金が出るから長生きリスクにも対応できる。受取のときも公的年金控除がある。保険料が払えなければ減免制度もあるし、年金給付の財源も税金から出ている。自営業者なら国民年金をベースに足りない部分を国民年金基金や小規模企業共済でカバーし、同時に貯蓄もする、さらに余裕があるなら民間の個人年金に加入する、これが正解だろう。
 年金・医療・介護などの社会保障に関する話をしていて感じるのは、制度の中身をよく知らずに不信感だけを募らせている人がとても多いことである。保険料の負担感ばかりに気を取られている人は多い。自営業者が労働者を雇ったときは労災保険雇用保険に入らないといけないがほったらかしにしている人は多い。労災保険雇用保険の給付の中身を知らないから、強制的に保険料を巻き上げられているような意識になってしまうのである。そしていざ労働者がけがをしたときに身銭をきって治療費の面倒をみる自営業者もいる。
 公的な制度を理解する、そのうえで足りない点を批判したり改善を要求するのが筋である。行政=非効率、公務員に対する不信といった先入観にとらわれて、公的な制度をまるごと否定してしまうのは間違いである。公的な制度をちゃんと理解する、そして足りない部分は自分でなんとかする、それでダメなら家族や周囲の人に頼る。「公助→自助→共助」の順番で考えていくべきだろう。

「老後のお金」を考える

 老後の生活をどうするか?多くの人にとって切実な問題だ。老後にゆとりある暮らしをするには夫婦で毎月36万円必要という調査もある(生命保険文化センター「生活保障に関わる調査」2010年度)。それだと、65歳から90歳までの25年間で1億円以上もかかってしまう。公的年金と退職金、現役時代の預貯金合わせて1億円というのは大手企業社員や公務員であっても厳しい数字だ。お金が足りない、それなら投資して増やすしかないという話になる。この調査は「生命保険」文化センター、生命保険の業界団体が発表したものだ。要するに生命保険会社や証券会社といった金融商品を売って利益を上げる人たちが「投資しないとゆとりある老後は送れないぞ」と煽っているのである。巷にあふれる「お金の話」の大半は金融商品の広告にすぎない。そんな中で「老後のお金」を考えるオススメの本が大江英樹・井戸美枝「定年男子 定年女子 45歳から始める『金持ち老後』入門!」(日経BP社、2017年)である。

定年男子 定年女子 45歳から始める「金持ち老後」入門!

定年男子 定年女子 45歳から始める「金持ち老後」入門!

 本のタイトルにある「金持ち老後」というワードを見たときは、「ああ、よくある投資ハウツーものか」くらいにしか思わなかったが、実際に読んでみると「投資する必要はない、むしろ下手に手を出すと損する」と投資を勧めていない。老後のお金の不安とはなにか?1、老後の生活費がいくらかかるか分からない。2、老後の収入(年金)がどれくらいもらえるか分からない。3、老後の蓄えがどれくらい安心なのか分からない。この3つの「分からない」があるから老後に不安を感じる人が多い。しかし、「3つとも結構分かっちゃう」のである。
 1、老後の生活費は定年の数年前から家計簿をつけることで把握できる。定年退職すれば仕事にかかわる支出は減るのでそんなにお金はかからない。みんながみんな「1か月36万円」必要なわけではない。2、老後の収入はねんきん定期便で把握できる。収入が足りない分は定年後に働けばよい。月8万、10万程度でも塵も積もれば山となる。月8万円で10年間働けば960万円。3、老後の蓄えはいくらいるか?それが分からないのは病気や介護などの「もしものお金」がいくらか分からないから。日本の健康保険制度では高額療養費制度があるし介護保険にも同様の制度がある。医療費の上限は知れている。医療+介護で一人800万円見ておけば大丈夫。高額な民間生命保険に入らなくてもよい。
 私は今年で35歳だからタイトルにある「45歳から始める」よりも10歳若い。しかし私は収入の少ないサラリーマンだから今のうちから老後について考えておかないといけない。経済的余裕のない人は将来を考える余裕がないから目先に振り回されて年金も払わず、ヤケクソの浪費をしてしまいがちだが、もらえる年金が少なく貯金も難しいからこそ、早くから老後のことを考えないといけない。一方である程度の収入のあるサラリーマンや公務員なら贅沢な生活をしないのなら退職金と年金だけで生活はカバーできそう。現役時代の所得はすべて使い切っても何とかなるだろう。しかし、老後の不安を煽る情報や「年金破綻」が叫ばれる昨今では、老後に備えて過度な節約をして消費しない人は多い。老後のお金について、「金融広告」や「財政破綻論」に振り回されずに、落ち着いて考えるのは大切だ。

菅野完「日本会議の研究」(扶桑社新書、2016年)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

 前回に続いて「日本会議本」である。著者の菅野氏は森友問題で籠池氏に食い込みインタビューに成功、籠池氏の代理人の如く振る舞っている人物である。菅野氏は奈良県出身、かつては部落解放運動や反ヘイトスピーチの活動にも関わった「人権派」である。ただ、左派・リベラルとも一線を画している。正体の掴みづらい人物である。
 「日本会議の研究」(以下、「菅野本」)では日本会議とは何か?、その歴史・憲法観に続き、草の根運動とその中心にいる「一群の人々」と呼ぶ活動家らを追っている。前回記事の「日本会議の正体」(以下、「青木本」)との違いは、元通信社記者の青木氏は当事者へのインタビューを中心にして日本会議の実像を描いているのに対して、菅野氏は取材もあるけれど過去の刊行物・資料を徹底的に追いかけて、点と点をつなぎ合わせていく作業に重点をおいている。菅野本は推理小説のような構成で日本会議の淵源に迫っていく点、読み応えがあり面白い。
 もう一つの違いは青木本は日本会議を支える組織として神社本庁生長の家を取り上げた。一方で菅野本ではもっぱら生長の家の活動家に焦点を合わせている。保守系の学者としてメディアに登場する百地章高橋史朗生長の家の活動家上がりだというのははじめて知った。菅野氏は冒頭で日本社会全体が右傾化しているわけではない、むしろカウンターデモや安保法制反対の活動なども盛んだ、と述べている。世間は右傾化しているわけではないのに、政権とその周辺の一部の人間だけが急激に右傾化している、だからその正体を突き止めようというのが菅野本の書き始めである。そして、その中心にいる日本会議活動家の経歴を洗い出していく。
 安倍政権の「保守」は特殊な宗教団体の活動家がブレーンになっている、そして彼らは明治憲法の復活を掲げているということが「世間の常識」になれば安倍政権を何となく支持しているような人は雲散霧消するんじゃないかと思う。一方で、菅野氏が指摘しているような「特殊な人々の運動」だけが日本の右傾化、安倍長期政権を支えているわけではないとも思う。菅野氏は日本の右傾化の正体を「一群の人々」の熱心な活動、その共通点である生長の家に還元しているが、私は少し違うと思う。私は菅野本では取り上げられなかった神社本庁神道のほうが日本国民の精神性に深く食い込み、日本の右傾化をすすめているのではないかと思う。私が言いたいのは、現在の神社本庁の運動力・組織力といった問題ではない。生長の家は所詮、新興宗教団体である。谷口雅春という教祖が「生命の實相」という本を出し、その本を読んだら病気が治ったというので広まった宗教である。出版を軸に利益を上げる、病気治しのご利益といい「よくある新興宗教の一つ」にすぎない。一方の神道明治憲法下では国家神道となり日本の戦争推進に大きな役割を果たした。国家神道は国家権力が国民に押し付けたものだから戦後はGHQ神道指令によって解体された。しかし、国家神道を受け入れる国民性・精神があったからこそ国家神道が日本を支配したという面も忘れてはならない。そして、国家神道は解体したが、国家神道を受け入れた日本人の精神は生き延びている。そこに日本の右傾化の正体があるのではないか(もちろん経済的問題や外交問題もあるが)。日本会議研究の本はたくさんあるが、これ以上読み込む必要はなさそうだ。私はそう考えて、いまは国家神道にかんする本を読み進めている。

青木理「日本会議の正体」(平凡社新書、2016年)

 森友学園問題でも話題になった右派団体「日本会議」。海外メディアからは「極右団体」「日本を牛耳っている」とまで言われているが、日本のメディアではとりあげられることはほどんどない。だからほとんどの日本人にはその存在じたい周知されていない。一方でベールにつつまれた組織であるがゆえ、「日本会議の陰謀で政治が動いている」という「日本会議陰謀論」まで囁かれる。それは「ユダヤ陰謀論」「コミンテルン陰謀論」と瓜二つである。
 この本は日本会議のルーツをたどりながら、関係者へのインタビューを積み重ねて日本会議の正体に迫っている。青木氏はテレビ朝日「モーニングショー」コメンテーターもつとめる元共同通信のジャーナリストである。彼の政治スタンスはリベラル・左派であり、日本会議には批判的・否定的である。
 「日本会議の正体」では、まず現在の日本会議について解説している。日本会議の幹部には右派の論客、財界人、宗教団体幹部などが名を連ねる。自民党の国会議員の大半が会員であり、地方議員も多い。そして全国各地に地方組織をもつ。その活動を支えるのは新興宗教団体「生長の家」出身の活動家、そして神社本庁である。
 第二章では右派の学生運動、そのなかで中心的な役割を果たした「生長の家」出身の活動家に焦点を当てる。左派が圧倒的多数を占めた学生運動のなかで、右派の立場で運動に取り組み大学自治会を掌握した経験が彼らの出発点にある。地道なオルグ(組織化)、宣伝活動などに粘り強く取り組んだ。その背景にあるのが「生長の家」教祖である谷口雅春への心酔、宗教心である。
 第三章では日本会議のもう一つの柱である神社本庁神道をとりあげる。神社は季節の行事や祭りで国民にはなじみがある。しかし戦前戦中には国家神道として戦争を推進するうえで重要な役割を担っていた。全国8万ある神社の大半は神社本庁傘下にある。豊富な資金力と地域有力者とのつながり・人脈をもつ。神社本庁傘下の一部は憲法改正運動に積極的に取り組み、境内に署名用紙を置いて参拝者に積極的に働きかけている神社もある。
 「生長の家」出身の活動家と神社本庁の資金力・人脈を合体させて強力なロビー活動、国民運動を展開するのが日本会議である。その結成は1997年と比較的新しい。第四章では日本会議結成以前も含めた「草の根」運動史を取り上げている。署名活動、地方議会あでの決議によって運動を盛り上げ中央政界に影響力を行使する、これも「左派の政治手法」をまねているのである。そのルーツは1970年代の「元号法制化」運動にある。
 それではこの日本会議の正体とは何か?「日本会議陰謀論」的に考えると政権の背後で牛耳り「上からの圧力」で国民を押さえつけているかのように思ってしまうが、それは適切ではない。むしろ陰謀論的に捉えるのは日本会議を過大評価することにもなる。
 この本の最終章で述べられる日本会議の正体、それは過大評価でも矮小化でもない。選挙資金や運動員の応援をするといった運動は日本会議にはなく、日本会議が人員・カネの面で影響力を行使して政治家を動かしているわけではない。青木氏は安倍政権と日本会議が共鳴・共振しつつ「戦後体制の打破」という共通目標へ突き進む過程で、日本会議の存在感が大きくなったと見ている。むしろ重要なのは「日本会議的なもの」を許容するようになってしまった日本社会の変質であり、左派が衰退したことで右派が目立つようになったことにある。中国や韓国が経済成長し国際的地位が高まる一方で、日本は格差や貧困が拡がり将来不安が渦巻いている。そういう状況が右派思想を許容する空気を作り出した面もある。青木氏は最後に日本会議を「戦後日本の民主主義体制を死滅に追い込みかねない悪性のウイルスのようなもの」と断じている。日本会議を構成するのは新宗教神社本庁といった宗教団体であり、彼らは戦後民主主義国民主権といった近代民主主義に否定的であり軽視している。彼らが社会の片隅で主張を繰り返しているうちはまだいいが、政権与党と共鳴している現状はかなり危機的である。
 日本会議的なものを受容する心理、社会の変質といった話はこの本では掘り下げられていない。あくまで日本会議の等身大の姿、素顔をあぶり出すことが中心である。当事者への丁寧な取材に基づいている点はよい。日本会議について知りたい人は最初に読むべき一冊だと思う。

井手英策「経済の時代の終焉」(岩波書店、2015年)

経済の時代の終焉 (シリーズ 現代経済の展望)

経済の時代の終焉 (シリーズ 現代経済の展望)

 
 序章  さまよう「公」と「私」
 第一章 私たちはどのように新自由主義に飲み込まれたのか?
 第二章 なぜ私たちの賃金は下落するのか?
 第三章 グローバリゼーションはどのように世界経済を揺るがしたのか?
 第四章 なぜ財政危機が問題なのか?
 第五章 経済の時代の終焉ー再分配と互酬のあたらしい同盟

 読後メモ
 ・1970年代〜90年代 対米圧力、財政赤字増税への財界の抵抗、「小さな政府」路線
 ・「土建国家型利益分配」が経済成長鈍化により機能不全になり都市中間層が「行財政改革」を支持
 ・IT技術、株主至上主義、グローバル化による労働者の地位低下、労働組合の組織率低下、賃金低下
 ・グローバル化、金融経済による経済不安定化・欧州型福祉国家の動揺
 ・地方政府の財政危機をもたらしたのは経済成長低下ではなく地域の分断、納税への不信感による「租税抵抗」
 ・「再分配」と「互酬」により経済を制御する社会へ

 感想
 ・財政問題を考える際、「◯◯が悪いから財政が悪化した」と犯人探しに躍起になり、その「犯人」に負担させることで財政を改善しようとするのが財政再建論者のロジックである。しかし、このロジックでは必ず国民を世代間対立、階層対立、民族対立などの形で分断し、国民の租税意欲を削ぐことにつながっている。だから、特定の層に負担を背負わせるのではなく、負担を分かち合うこそ財政債権になるという著者の主張は従来の「財政再建議論」の堂々巡りを突破する処方箋になるのではないか。著者は民主党の税と社会保障の一体改革、子ども手当といった一連の政策、方向性を評価しつつも、予算抑制のために「犯人探し」をする事業仕分けなどに旧来型の財政再建手法を見てとり、民主党政権の限界を指摘している。国民の連帯をどう取り戻すか、それこそが財政再建、日本経済復活の鍵になるのではないか。

麻田雅文「シベリア出兵」(中公新書、2016年)

 近代日本の戦争といえば、日清・日露戦争満州事変から日中戦争・太平洋戦争の話がほとんどである。日本史でも詳しく説明されているし、映画や小説・漫画で取り上げられるのもこれらの戦争である。日本の歴史でシベリアといえば、シベリア出兵よりも大戦後のシベリア抑留のほうが有名である。この本では、そんな「忘れられた戦争」であるシベリア出兵の全貌を描いている。私のシベリア出兵に関する知識といえば、米騒動の引き金になった、ロシア革命の影響を抑えるために列強が介入した、その程度の知識しかなかったので非常に勉強になった。
 まず、シベリア出兵が画策されたのはロシア領内にいる「チェコ軍団」救出のためだった。「チェコ軍団」とはオーストリアハプスブルク家の支配から逃れてロシアに移住したチェコ人、スロヴァキア人の子孫や、第一次大戦でロシア軍の捕虜になったチェコ人、スロヴァキア人からなる部隊である。彼らはオーストリアと戦うロシアに協力することでチェコ・スロヴァキアの独立を目指していた。しかし、革命後のソヴィエトはドイツ・オーストリアと講和してしまい、チェコ軍団はロシアに居場所を失った。ソヴィエトと講和したドイツは東側の戦線がなくなったため英仏との西部戦線に集中できる。英仏はチェコ軍団を利用してロシア側にもう一度戦線を再建しようとする。そのためのチェコ軍団救出がシベリア出兵の大義名分となった。
 シベリア出兵は列強による共同出兵となったが満州朝鮮半島、サハリンの利権死守・拡大の野心を持つ日本は他国よりも多く出兵して撤退も一番遅れた。さらに日本はシベリアに親日傀儡政権をつくろうと様々な工作を試みるも失敗に終わる。北東アジアの利権争いという面では、シベリア出兵は日清・日露戦争の延長線上であり、軍部が先走って進軍したり傀儡政権の工作をする様は満州事変〜日中戦争の前哨戦のような面もある。当時の日本は軍部が先走っても最後は政府が押さえ込んでいたので撤退に持ち込めたし、政府は欧米列強との協調を重視していたので満州事変以後のような国際的孤立にまでは至らなかった。当時の政治家は撤退論者が多かったにもかかわらず、いざ首相になると「成果を出すまでは撤退できない」と撤退を渋るようになる。さらには元老・山県有朋や軍部などが政治プロセスに介入してくる様が詳しく描かれている。
 このシベリア出兵をちゃんと反省して総括していれば、その後の歴史は大きく変わったのではないか。しかし日本政府や軍部、国民世論はシベリア出兵の顛末をすっかり忘れてしまって、戦争にのめり込んでしまった。いまの日本では安保法制が施行され、自衛隊が戦争に巻き込まれてもおかしくない時代である。しかしこれから起こる事態は日清・日露戦争や両大戦のような全面戦争ではないだろう。シベリア出兵のように国際協調による共同出兵の形をとるだろう。そう考えると、シベリア出兵についてきちんと学ぶことは、これからの日本の安全保障・自衛隊派遣のあり方を考える上でも大切だと思う。この「忘れられた戦争」は今こそ、日本人が学ぶべきではないだろうか。

吉川洋「人口と日本経済」(中公新書、2016年)

 日本の政治・経済での主要な論点に、少子高齢化・人口減少で経済成長・財政・社会保障はどうなるのか?という問題がある。少子高齢化社会保障の負担が重くなる、労働力不足が経済成長の足かせになるなどと指摘されている。日本の未来は暗い、日本はこれから衰退するといった話にまでつながっている。この本では、そうした「人口減少ペシミズム」を否定し、経済成長の源泉は「イノベーション」であるということを各種データを用いて説明している。人口減少を経済衰退・国力衰退と安易に結びつける論調があるなかで、事実・データに基いて丁寧に否定していくことは重要である。しかし何か消化不良な読後感がある。なぜかと考えると、この本で指摘されている「イノベーション・経済成長によってあらゆる問題が克服される」という考え方こそがこれまでの主流であり、この考え方に基いて経済・社会制度が運営されてきたからである。この本では「人口減少ペシミズム」という「俗論」に対して、「イノベーションによる克服」を「新しいアイデア」のように主張しているが、むしろ「イノベーション・経済成長」による問題解決こそ「使い古されたアイデア」ではないのか。そして、イノベーション・経済成長がいつまでたっても進まない、停滞しているからこそ、財政や社会保障の問題がどんどん悪化しているのではないのだろうか。そう考えると、ピケティが主張した「労働分配率の悪化、格差拡大の是正」こそ「新しいアイデア」であり、検討しなければならないと思うが、この本では「ピケティの主張に対しては、理論的にも実証的にも反論のほうが優勢である」(P88)というのみで、突っ込んだ議論はなされていない。

 「イノベーション・経済成長による問題克服」路線の経済運営がうまくいかないのはなぜか?という切り口こそが必要だ。イノベーションを阻害する要因はなにか?経済成長を阻害する要因はなにか?それとも成熟経済における経済成長追求がもたらす歪みが経済の足を引っ張っているのではないか?、こういった問題提起と分析こそ必要だと思う。「人口減少ペシミズム」を否定してみせたところで、現実の経済運営が正当化されるわけでもない。「人口減少ペシミズム」という否定しやすい対案を持ち出して、「イノベーション・経済成長論」をもっともらしく見せようとしているのではないか。「イノベーション・経済成長による問題克服」といっても、政府に出来る産業政策は限られているし、経済成長任せにすることは目の前の少子高齢化・貧困や格差の問題に正面から取り組まず、むしろ「経済成長によって克服されるのだから、なにもしないほうが良いのだ」とばかりに無為無策を正当化することにもつながりかねない。人口減少を過度に悲観する必要はないというのは収穫だったが、どうやってイノベーションするのか?経済成長するのか?は残された課題である。同時に「分配の公正」による経済政策も真剣に検討しなければならないように感じた。